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© Keiichiro Yamazaki
R E C E N T P O S T S
邂逅
広く、ひんやりと冴えた空気が静かに流れぴんと張りつめた廊内は明るくも暗くもなく、足音を立てることも憚られた。自分の他に人は誰もいなかった。すべて作品は金属で、表面の風合いによって木のようにも石のようにも、あるいはしなやかで弾力のある樹脂のようにも見えた。亀、蜻蛉、阿修羅、そして炎のような形を成さぬもの、滑らかな円筒のようなもの、古代に彫られた石の像に似せたもの。なりふり構わない、そんな第一印象だった。 ステイトメントや過去のテクスト類の中にメチエという用語を見た。人間のひとりひとりにそれぞれ声があるように、真摯な作品はそれが何であれ、また年月とともにどのように変化しようとも一貫した質感や雰囲気を纏っている。生前の彫刻家を私は知らなかったが、その雑多な作品群からはどこか仏具のような、軽々しく手を伸ばしてはならない厳かさと凄みが感じられた。素材から像を切り出すのではなく、この世界から可能なかぎり純粋な形で己のメチエを切り出そうとしたのだろうか、静かで、しかし激しい壮絶な人生が想像された。 作品とはどこからどこまで作品で、人間はどこからどこまで自己なの

keiichiroyamazaki
24 時間前
メトープ
仕事で疲れ果てて、まともに読書をするような気力もなくて、ふと、昨年夏に作った歌集をぱらぱらと捲ってみた。昔詠んだなつかしい歌を引っ張り出して手直ししたり、記憶を頼りに新たに詠んだりと奮闘していたのがずいぶんと昔のように感じられる。 詠まれているのはギャラリーで見たものの記録代わりであったり、何気ない風景であったり、友人や知人、親族や恋人であったり。ひとに関わるものについては特に瑞々しくその記憶を呼び起こすもので、それが読まれる方にどのように届くものかはわからないが、その力の強さに驚くばかりだ。 凝らすような技巧はもともと私にはないから、詠まれている言葉は多少古めかしくとも基本的にまっすぐ素直なもの。それでも、見たもの、聴いたもの、触れたものと私とが関わり合うその在り方、ぬくもりのようなものは私だけのもので、しかしそれを私の外に持ち出してみようというちょっとした挑戦、届くという結果を期待しない遊戯のようなものが、いかなる形であれ表現と呼ばれるのだろう。 ぐちゃぐちゃに感情を掻き乱されて、何とか自分の軸を保とうとして、何の未来もないひどい日々だという

keiichiroyamazaki
1月24日
あけましておめでとうございます
あけましておめでとうございます。昨年も大変お世話になりありがとうございました。例年、秋に一度の個展だけのシンプルな生活を送ってきましたが、2025年は2度の個展やそれ以外の制作があり、また私生活での困難も重なり慌ただしく過ぎてゆきました。今年も11月ごろ個展を予定しておりますので、また皆様にお会いできるのを楽しみにしております。 私の人生は幸福ではありますが、基本的に健やかなものではありません。制作が生活の中心であり、作品が扱うものが人間そのものに関わる問題であり、そして現代がどのような時代かを思えば私の精神が常に悲観的な方向へ傾いているのはやむを得ないことです。しかしながら私は同時に享楽主義者でもあり、どんな考えの下に生み出されたものであっても最終的にはひとの目を喜ばせるべき、肉体的快楽を供するものであるべきだと心得ていて、私自身もそれを心から楽しんでいます。 人間は記号の向こうにあるものを他者と本当には共有することができません。誰しもがその内面に自分だけの世界を、意味を、人生を持っています。作品における正しさとは、言葉がそうであるように、それ

keiichiroyamazaki
2026年1月1日
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