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伸ばした手の先に

  • 執筆者の写真: keiichiroyamazaki
    keiichiroyamazaki
  • 12月4日
  • 読了時間: 3分

更新日:7 日前

いつか見た映像。マイケル・ティルソン・トーマスが指揮台に立っている。おそらく学生たちと見えるとても若いオーケストラのリハーサルで、演目はブラームスの1番だった。記憶がひどく曖昧だがこんな感じのやりとりがあった。交響曲の冒頭、序奏についてだ。



『これはどんな感情だと思う?』


「苦悩」


「逆境」


「絶望」


『絶望はしていないね。必死に手を伸ばしているだろう』


「希望」


「渇望」


「切望」


『いいね。切望。掴めそうで掴めない。でもそこにあるんだ』



字幕を読んでいたから、彼らがどんな言葉を選んだのかは覚えていない。desireだったかもしれないし、longかもしれない。yearn、crave、様々な表現が考えられ、こうした繊細な語彙には意味がほとんど同一のようなものも珍しくないから、訳語の違いに囚われすぎないよう周辺視的に読む必要がある。私には日本語のほか満足に使える言語はないが、この話題の中で指揮者が思い描いたであろう語にはひとつ心当たりがあった。それはきっと「Sehnsucht」で、このドイツ語はどうやら「甘美な欠如・渇き」「強い憧れ」「恋慕う」といったイメージが複雑に織り重なったものであるらしく、容易に翻訳できない豊かな詩情を備えることで古くから名高い。


なほ一例を擧げればSehnsuchtという語はドイツ民族が產んだ言葉であって、ドイツ民族とは有機的關係をもつてゐる。陰鬱な氣候風土や戰亂の下に惱んだ民族が明るい幸ある世界に憬れる意識である。レモンの花咲く國に憧れるのは單にミニヨンの思鄕の情のみではない。ドイツ國民全體の明るい南に對する惱ましい憧憬である。『夢もなほ及ばない遠い未來の彼方、彫刻家たちの嘗て夢みたよりも更に熱い南の彼方、神々が踊りながら一切の衣裳を恥づる彼地へ』の憧憬、ニイチエのいはゆるflügelbrausende Sehnsuchtはドイツ國民の齊しく懷くものである。さうしてこの惱みはやがてまたnoumenonの世界の措定として形而上的情調をも取つて來るのである。英語のlongingまたはフランス語のlangueur, soupir, désirなどはSehnsuchtの色合の全體を寫し得るものではない。ブートルーは「神祕說の心理」と題する論文のうちで、神祕說に關して『その出發點は精神の定義しがたい一の狀態で、ドイツ語のSehnsuchtがこの狀態をかなり善く言表はしてゐる』と云つてゐるが、卽ち彼はフランス語のうちにSehnsuchtの意味を表現する語のないことを認めてゐる。

≪「いき」の構造(九鬼周造著 1930年)より≫


日本における「いき」がそうであるように、「Sehnsucht」はドイツ民族の歴史のなかで醸成された固有の感情だということらしい。ブラームスの冒頭が上述のようなイメージを色濃く感じさせるものであるのは大いに納得で、日本語を話す東洋人である私がいくらかそれらしい感覚を持っているのは音楽を学び記号論に触れ写真などやっている人間であることも関係がありそうだ。見ること、知ることは撮ることと同じくものごとを枠組みで切り取り抽象化することで、しかし次の瞬間その生々しい本質は夢幻のように消えてなくなってしまう。存在と意味の境域と、おそらく人間精神の限界なのであろうその場所を超えた先にある永遠の混沌に対して私が向ける眼差しは信仰に似たある種の憧憬で、決して満たされることはなく常に渇いて、しかし甘美でもどかしく、痛みを伴いながらも単なる病的偏執では決してない。渇望、切望、憧憬、崇拝、恋慕、渇仰、憧れ、どれも的外れではないが、言葉では届きそうで、どうしても届かない。SehnsuchtへのSehnsuchtと納得するしかなさそうだ。


先日ある個展に伺って、作家さんに尋ねてみた。

「自然のものの形に強い憧れや畏敬をお持ちかと存じますが、それは決して手の届かないもどかしさでしょうか?それとも一生飽きることのない喜びでしょうか?」


Sehnsuchtの伴わない作品は存在するだろうか。

 
 
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