レイン・ツリーの夜
- keiichiroyamazaki

- 3月4日
- 読了時間: 2分
その場所に灯があることは知っていたが、訪ねてみたことはなかった。あの日、私は訳もなくふらふらとそこまで歩いてゆき、それが古本屋だと理解するよりも早く、ドアに手をかけていた。小さな石油ストーブと、あたたかな電球の光。書架の本はどれも古びて褐色に褪せ、店内は些か雑然としてもいたが、それでも愛情というか、願いとでも言おうか、そういう類の凛とした何かが隅々にまで満ち溢れているのが感じられて、胸が弾んだ。ギャラリーに一歩足を踏み入れて、そこにある作品がすばらしいものであるに違いないと瞬時に身体が理解する、あの感覚と同じものだ。
エキゾチックな雑貨のテーブルと小さなカウンターの脇を通り過ぎて、奥には心理学の棚、その隣にはエマニュエル・レヴィナス、モーリス・メルロ=ポンティ、クロード・レヴィ=ストロース、ロラン・バルト。さらに手前の棚に並ぶ音楽に関わる書籍の中に、ふいに武満徹の名前を見つけると、ポケットの中に入れていた大江健三郎が微かに震えたような気がして、ぞくりとした。手に取り開いてみたその本は武満氏本人の遺したエッセイや親交のあった人々が氏やその音楽について様々に語った言葉を集めて丁寧に編んだ、非常に内容の濃い一冊のムックだった。
幸せなことに、今年に入ってからこういう刺激的な出会いがとても多い。はじめてお会いする版画家さんの展示に行って、「これは買って手元に置いておかなくてはだめだ」と思ったこと。ギャラリーで独りジャズを演奏する羽目になったこと。島久幸氏を見た後にカンディンスキーの本を見つけて、そこにとある画家氏に宛てられた葉書が挟まっていたこと。自分の行動や思考が他者と一瞬交差して火花を散らして、その残像が目を閉じても色とりどりに飛び交って、それがまた新たな思考や感覚に繋がってゆく。
今日はこれに呼ばれたのだな、と満ち足りた気持ちでレジに持っていくと、店主さんがにこやかに、ステッカーと周辺のお散歩地図と一緒に袋に入れてくれた。事情はわかっていますよ、とでも言うかのような優しい笑顔だった。
雨の木に導かれた。そうとしか言えない夜だった。
