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なつやすみ

  • 執筆者の写真: keiichiroyamazaki
    keiichiroyamazaki
  • 8月15日
  • 読了時間: 2分

いちおうお盆休みではあるのだけれど、稀有な案件があり立て込んでいる。その都合があって歌集の制作を前倒しにしたのだが、なんだかそれがずいぶん前のことのように感じられて、こんなふうに薄れてゆく記憶のためにこそ和歌のようなものがあるのだとつくづく思う。恥ずかしながらチェックが至らず形容詞の活用に誤りを見つけたがご愛嬌。またいつか載せる機会があったら誤用の注釈を添えて晒しものにしてやろう。どこかで用例を見たと記憶違いをしていたようで、日常で使うのと違うことばでものを書くのは、やはり大変だ。


今かかりっきりになっている件についてはいずれ告知をさせていただくけれど、きっと楽しんでいただけるものになると思う。おかげで11月の個展のこともすっかり頭から抜けて、でも5月の作品展の時点でもう組めてはいるから、落ち着いたらまた新鮮な視点で見直すことができるはず。自分としては非常にめずらしいクライアントワークではあるがよいご縁と思っているし、大きく、また心地よい責任も感じている。


自分にとっては「調和」こそがすべてであり、たいていの場合クライアントワークは「より広く見られるため」「より広く届けるため」を行動原理としていて、残念ながらそのほとんどが「調和」の逆の方向を向いている。アーティストは皆大なり小なりそのジレンマを抱えていて、そのパワーバランスが世の中と人々にとって取るに足らない、しかし同時にとても重要なちょっとした一面を担っていると言っていい。


仕事の合間に寝具の洗濯や部屋の掃除をしていたら二十歳の頃に大学で提出した、何と感熱紙に出力したレポートが出てきた。ただぼんやりとした疑問を少しばかり整理してみただけで大したことは書いていなかったが、ソシュールやイエルムスレウ、パースといった言語学者に触れながら様々な記号体系とその規約性、恣意性の程度を検討し、まったく恣意的であるかのようでとらえどころのない美的な記号機能について何か小さな手がかりでも掴めないか奮闘する健気な若者の姿が目に浮かぶようではあった。


情けないことにあの頃読んだ本のことも大半は忘れてしまったけれど、同じ問題について知識による学びと思考だけでなく様々に手を動かしながら答えに近づく方法を今は持っている。昔も今も変わらぬものを見据えていられている人生を、私は気に入っている。

 
 
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