天職
- keiichiroyamazaki

- 6月16日
- 読了時間: 3分
通っている歯医者のドクターは、もうすぐ70歳になる。
父親から受け継いだという古い小さな医院を長年、完全ワンオペで切り盛りして、町医者でありながら大学の先生でもあり、その実直な診療方針が自分のような人間にはありがたく、お世話になってもう8年ほどになるだろうか。それなりのご年齢ではあるから、いつも心のどこかに「その後のこと」が引っかかっていた。街に歯医者さんは山ほどあるが、多少浮世離れして予約管理が怪しくても、同じくらいしっくりくるドクターを見つけることが非常に困難であることは火を見るよりも明らかだ。だから先日「お伝えしておかなくてはならないことがありまして」という言葉を聞いたときはどきりとした。
「何十年も止まっていた地域の再開発が動き出しまして、うちも立ち退きをということになりました。駅のほうにあるのと同じような商業施設をここにも作るそうで。私はお金のことがわかりませんから補償金のことは弁護士に任せているのですが、同じような規模で移転するに満足な額は到底望めそうにないようです。次回の診療が7月で、その次は10月あたり。その頃にはもう、ここは解体される予定になりますね」
半ば腹をくくった。が…
「新規開業は資金的にも年齢的にも無理ですが、院長が高齢で経営を継続できないクリニックというのが巷には珍しくなく、そういう居抜きの物件を仲介する業者もいます。私も当たってはいるのですが条件の合う物件というのは非常に限られまして」
…私は…
「一件だけなんとか合いそうな物件がありまして、また遠くなってしまいますし今より規模が大きくもなりますが、そこに決めようと思っています」
…自分の…
「現院長は引退されるのですがスタッフも大部分辞めてしまうので、時間もありませんし何とか人員をと方々当たっているところです」
…浅はかな…
「父と同じ年齢まで続けるとして、あと15年。これからワンオペではいろいろ不都合も出てくるでしょうし、これを機に、という感じですね」
…予見を恥じた。
「まあ、しばらくスタッフが足りなくても時間を区切って遅い時間をこれまで通り一人でやればいいだけですから、何とかなるでしょう」
当たり前のようにおっしゃる純朴な笑顔は柔和で、しかし誰より逞しかった。このひとはただ生活そのものとして歯科医なのだ。
「自分としては、通うのが可能であれば引き続きお願いしたいと思っています。今のように平日仕事の後の遅い時間にというのは無理でしょうが、曜日と時間に無理がなければ」
考えるよりも先に口走っていた。
古く雑然とした、昭和まる出しのビルの一室。とことん使い込まれた道具と機械。誰かが置いていったらしい演劇の台本。ノートに手書きの予約帳。「詳しく知りませんがリラックスできますよね」と、優しいボサノヴァやジャズがうっすらと流れる診療室で過ごすのも、来月の一度で最後となる。
スタッフさんを迎えるなら予約管理ももうちょっと確実になるだろう。知らない街を受診ついでに散策するのも、きっと楽しいだろう。
