睡蓮を聴く
ひどく疲れて、ひとときの癒しを求めて暗い階段を降り、開け放してあるドアから中を一瞥する。知っているのとは違う人物が立ち働いているのが見える。このわずかな瞬間に去来する思考と感情は他の場所でなかなか体験できるものではない。
バーテンダーの方とはお別れの挨拶ができないことがほとんどだ。基本的に連絡先を交換したりしないし、月に何度も店に行くわけではないから、お辞めになるときにも事前に知らされることはあまりなく、ある日行ったらいなかった、というお別れのしかたになる。逆もまた然りで、彼らから私を見るならば、カウンターを挟んであれこれと会話を楽しみはすれど深入りをするべきでないし、次にいつ訪ねてくるのか、そもそも次があるのかもわからない。お互いに深く踏み込むことがないからこそ一緒に過ごす時間がより心地よいものになるという、酒場における一種の流儀のようなものだ。
ああ、もう会うことはないのだなと理解し、それがおそらく今生の別れであり、楽しかった日々を懐かしみ、感謝を噛み締め、しかし即座に切り替えて目の前にいる人物との時間を楽しむことにする。作っていただくお酒はその瞬間のインスピレーションで決めればよい。氷の音と共に初対面の緊張感がすこしずつ解れてゆく。彼らの多くは長年様々な人物への対応によって揉まれ、高い教養と豊かな感受性を備えている。カクテルはジャズスタンダードや落語のようなもので、基本や歴史を踏まえた上で自分なりの一杯を築き上げてゆくものなのだから、そうした素養が仕事に生かされるであろうことは想像に難くない。お願いしたジンライムはギムレットのように気品があり、きりりとして美しかった。
おすすめの一冊を尋ねるとボリス・ヴィアンの名が返ってきたから、後日言われるままに手に取ってみた。ひとまず頭から読み進めていく必要はなさそうだから、まずはランダムに開いて、ところどころ断片を味わってみることにする。様々な機械を駆使してごちそうを作る料理人や、前足が擦り切れ血を滲ませたネズミのために小さな松葉杖を作ってあげる光景が繰り広げられる。荒唐無稽と断ずるのは簡単だが、それなのに恋人の愛おしさがこんなにも胸を打つのはどういうことか。エーコ的に小説は開かれ、そのしなやかな無数の暗示とぎりぎりの構造とが、自分の精神と火花を散らしているのを感じる。
個展を終えたこの時期の退屈を紛らわせてくれるどころではない。ありがたいことだ。