ばななを齧る
毎日通う道の途中に当たり前のようにブックオフがあったのは、なくなってしまった今思えばとてもありがたいことで、だから出先で見かけると嬉しくてつい寄り道してしまう。背表紙の文字を眺めながらその日の電車の時間のお供を物色して、『スナックちどり』のタイトルに惹かれて、手に取った。
よしもとばななを読むのはほんとうに久しぶりだ。中学のころ、『キッチン』の全文を丸暗記していたから、英訳本を買って辞書を引かずに読み下すという力技な勉強のしかたができた。教科書というのは窮屈なのだなと理解できたし、おかげさまで当時(に限るが)、英語の成績とネイティブ講師の評価は抜群だった。
あの頃「よしもと」は漢字表記だった。なぜハードカバーの単行本でうちにあったのか全然覚えていないけれど、なんとなく手に取って、開いて、それまで読んでいた小説のような厳ついところが全然ないのに言葉への敬意は十分に満ちていて、窺える感受性の何気ないところが驚くほど自分に近いところに感じられて心地よかった。でもある時期、「よしもと」がひらがなになる頃だったと思うが、作家の関心がある方向に傾いたのかなと思うことがあって、それが自分に合わずになんとなく、大人になってからは疎遠になっていた。
大きな喪失があって、それでもいちおうお金には困っていないようなひとが出てきて、恋愛や性愛と巧みに距離を取りながら、ポーカーフェイスの下でじんわりと癒されていく。氏の小説にはそんな舞台装置がよく登場する。死ぬほど思いきり走って涼しい部屋に帰ってきて、噴き出し流れていた汗を洗い流して、とくとくと心臓が脈打つのが穏やかになってくる。乱れた呼吸が整ってくる。眠気や空腹がやってくる。そんな時間を描こうとするのが氏のテーマと思われる。大学の卒業制作からして風邪をチキンフィレサンドで癒していたし、それが氏の「やるべきこと」なのだろう。
『スナックちどり』の七文字は、久しく触れてこなかったそんな世界への郷愁を的確に刺激するもので、一時のわだかまりなどころりと忘れてうれしい再会を果たすことができた。派手な水商売風同窓生の栄子さんの姿に高校生のころの彼女の姿が鉛筆のラフスケッチのように重なって見えて、自分が履いていたハルタの革靴を思い出すところが『アムリタ』にあったと思うがちょうどそんな感じで、目の前の文章と過去に読んだ文章が、滲むように重なり合う感じがした。
現在と過去と、そこに変わらず横たわるものを見たり、あるいは変化を味わうというのは、とても楽しく、有意義だ。「よしもと」はまた近年漢字に戻ったのだそうだし、たまには手に取ってみようと思う。