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  • 執筆者の写真keiichiroyamazaki

分断

分断の時代、などという言葉をどこかで聞いた。おそらくフィルターバブルやエコーチェンバーといったような文脈で目にしたのだと思う。触れる情報が自分の預かり知らぬところで最初から偏っているために価値観が強化されて排他的、非寛容になり、社会が分断されるという主旨だ。一方で思考の偏りは人格そのものとも言え、たとえば私のような人間は独りでがっちりとバブルを作り、その中で思考をぐるぐる回してどんどん強化している。偏って上等、それが人間としてのスタートラインだ、とまで思っているかも知れない。


偏りの強さがほんとうに即排他に繋がるのか。他者と歩み寄ろうとするなら、まず自分の偏りを知り、対して相手はどうなのかを感じ取ろうとする姿勢が必要ではないのか。偏りなく思考しよう、ものを見よう、そんなスローガンが真意と裏腹に浅はかで事なかれな態度を招いてはしまわないだろうか。問題は価値観が強化され偏ることではなく、それが当人の自覚のないところで歪んだ思惑によってなされ、思考を奪われ流されるままになっている様相のほうにあるのではないか。偏ることそのものよりも、そこに至るまでの思慮の欠如こそが短絡的な排他を生むのではないか。言いたいことはわかる気がするのだが、どうも単純な言葉を乱暴に選びそれをスケープゴートにして済ませているようで、居心地が悪い。


インターネットの情報デリバリーを制御するアルゴリズムはビジネスとして提供されている以上、金銭に繋がることに第一義がある。SNSもそれ自体が広告収入等のための集金装置であって、またユーザーも情報を広く大きく動かすことによって収益を得る。ひとは基本的に考えたくないし、飛びつきたい習性を持っているようだから、情報はむしろ歪んで刺激的であるほうが都合がよい。こうした構造の中で必然としてひとは流され、搾取され、消費されていく。事業はそこに関わる者の物質的な利益のために行われていることで、つまり人々がその生活のために一生懸命にやっていることではあるが、仮に悪意がなかったとしても、それが人間自身を食い物にする類のものでもあることはどこか頭の片隅に置いておく必要があるだろう。


私はそこを偏りきることを選択した人間だから、SNSをやらないし、写真にも写らない。作品をwebに上げず、ギャラリーで生身の誰かとプリントされた現物を挟んで過ごす時間を持てさえすればいい。生活を成り立たせるためどこかにビジネスは必要だろうが、少なくとも私は、アートにそれを持ち込み情報に成り下がるつもりはない。


恐れず、まず孤独であれ。

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