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  • 執筆者の写真keiichiroyamazaki

こころ

日頃「こころ」という言葉を使うことはめったにない。曖昧さと強さの故に感情を煽る目的で振り回されがちな言葉はタチが悪いから、意識して避けているのだ。捉えどころのないものを見つめるときこそ孤独な思考が求められようが、共有のための安易な言語化はその不可視性から目を背けさせてしまう。簡単にこころこころとひとは言うが、それが心であるのか、心と書かれた下げ札であるのかはよく考えるべきだ。安部公房氏の「右脳閉塞症候群」とは性急で即物的な思考の在り方を批判するもので、繊細な観念を真摯に見つめるためにも、言葉とそれによる論理でむりやりに固定しようとする態度を取るべきでない、そう言っているのだろうと思っている。


心とは何か。手元の辞書には「人間の精神作用のもとになるもの、またはその作用」とある。なるほどさすがきちんとしていて、余計なことが書いていない。「精神」の項は「心、意識、たましい」となっているのはご愛嬌だが、このあたり語彙というものの限界はあるだろう。目に見えないものが何であるかは結局自分で決めるしかなく、そう簡単に理解、共有できるものではない。


膜のようなもの。奥底にあるというより自己の表層にあって、常に外界に接している。外側のものごとに対して常時様々に反応し、振動や揺らぎのような振る舞いをする。そうした反応、揺らぎという動きを通してしかその存在を意識することはできず、自己と外界の境界でありながら同時に自己そのもののようでもあり、しかもどうやら外界なしに成り立ちそうもない。いま初めて言葉にしたが、これが私の持っている「こころ」というものに対する感覚だ。


心が表層にある膜のようなものであるなら、それが包んでいるものは何なのか。観察できるようなものではないしはっきりと自覚はないが、世間で言う自己と呼ばれるものに、たぶん私はあまり関心がないのだろう。外界に対する反応としての振動や揺らぎによって見ることのできる表層、外界との関わりではじめて意識化される、そのさらに奥の領域を見つめるとき、そこにもはや自己は存在しないように思う。だからよい音楽こそ自分のものでないように感じるし、「伝わる」ということを幻想として否定し、ある種の「正しさのような何か」を追いかけている。自己と他者の間にある記号なるものに注目し、混沌と、そこから意味が生まれようとする瞬間を捉えようとしている。


入れ子、鏡像、ポジとネガ。人間はいちいちジオメトリックで、おもしろい。

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