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  • 執筆者の写真keiichiroyamazaki

見つめるもの

雪の思い出のついでに。


私が生まれたとき構造主義は疾うに始まっており、人類は主体的で自由な理性のもと弁証法的に弛まず進歩してゆくのだ、という前提は粉砕され、本質としてひとは普く構造の奴隷であるのだ、ということは既に示されていた。特別そうした知識に触れる経験があったわけではないが、子どものころから何かに何かを信じさせられているということに大きな不快感を抱いて、その最たるものは言葉であるという直感を持っていた。ごく自然と構造主義的に私は育ち、生きてきた。


もともと哲学とは科学の礎のような性質のもので、理性や思考のありかた自体を扱う方法論だと言えるが、その論理や世界観だけを切り出して検討しようとする狭義の哲学は科学よりもアートに近く、だから敗れ去ったとされる過去の思想であってもそれがどんな形で標や糧となるやも知れず、己やものごとを見つめる方法として大いに価値がある。


真に自由な理性などなく、ひとは抗うことのできない構造によって規定される。よくわかるが、それはかつてカントが示した認識の限界をめぐる視点とも通じるところがあるように思う。ニーチェによって死を言い渡された神という存在も、ひとを規定する構造のようなものを言わば文学的に描き出した姿と言えるかもしれない。構造主義の祖レヴィ=ストロースは「神の代わりに歴史を据えたにすぎない」とサルトルの実存主義を批判したが、神であれ構造であれ、人間を背後から縛るものというイメージで広く捉える視点があってはまずいだろうか。


理性の力によって人の世は果てなく進歩してゆく、などというおめでたいことを私は信じないが、個人レベルでなら弁証法的向上のサイクルを回して力強く自己実現を目指すのはすばらしいことだと思っている。全人類的にそれが真理であるとまで言えば綻びも出ようが、相対性理論で扱われるような光速の世界を一般人が日常生活の中で意識する必要がないのと同じように、視点がどこにあって、どこまでの範囲に適用するのかによって適当な原理もまた変わってくるだろう。量的、動的にしなやかな思考をすべきだ。


言語のような記号もまさしくひとつの構造であり、ひとを縛り、規定する。そんな目で世界を眺めるなら、問題の中心が自己と他者の間、記号と意味の間、混沌から観念が分かたれる瞬間にこそありそうだと考えるのは自然なことだ。構造による支配のもと不自由にものを見、あるいは見られ、自己と他者の間に交錯する無数の意味のどれもが満足に一致することは永遠になく、だから誰もが等しく孤独であり、突き詰めれば共有とは仮想や幻想にすぎないと知っていたとしても、ついその温もりに縋ってしまう弱さをひとは持っている。そこにつけ込んで欲望が渦を巻き、人間を飲み込みその思考や感性を奪い取ろうとする。現代とは浅ましい思惑を載せた膨大な記号の嵐吹く荒れ果てた世界である。


私は私の裡にある名を持たぬものを守り、崇めるようにまっすぐそれを見つめ、手を動かし、そうして作ったものが力を帯びることだけをただ喜びとすればよい。


伝えなくてよい。届かなくてよい。誰でもない自分でよい。甘い幻は、要らない。

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