top of page
  • 執筆者の写真keiichiroyamazaki

額縁の中で

微睡むようでありながら、精神のどこかがぴんと張り詰めて、温かくも冷ややかな夜。洞窟のような暗闇の底で、大理石のテーブルの優美なひび割れを眺めながら、か細いランプの灯をグラスの縁が気まぐれに透過し、または反射するのを愉しんでいる。上下の顎がオリーブの実を潰すのさえ気を遣うほどに静かだから、コルクがボトルの内側を擦る音、水に触れて氷の鳴る音が深い新鮮な印象を刻み、酔いとともに胸の弾む気配もが手に取るようにわかる。


黄色のシャルトリューズは意外に置いていないところも多くて、そのときはバーテンダーに相談しながら一杯目を決める。no.3のジントニックやジンライムをいただくこともあるし、カンパリやスーズのトニック、プレズビテリアンもいい。今日は緑のVEPとリキュール・デ・エリクシルがあると言うので、後者をソーダでお願いしたら、それだけで品の良いジントニックをいただくようで、ライムの香り高く、素晴らしかった。不老不死とはいかずとも、この場所にしかない種類の癒しがあるのだと悟った。


店の入口には何も飾られていない空の額縁が置いてあり、そこにライトが当たっていればオープンのサイン。最初のドアを開けても真っ暗な階段が下へと続いているだけで、知らないひとはとても入ってこられないような外観をしているから、それでも中にいるのは、今夜はこの場所で過ごすのだという意思をはっきりと持った者だけだ。「お酒が飲めればどこでもいいという方にはミスマッチになってしまいますから」と言う。潔い。


音楽もなくしんとした店内でも、時折冷蔵庫のモーターが動き出したり、カクテルを作る小気味よい音が聞こえ、微かな揺らぎがある。空間と時間について考えに考え抜かれた場所だと理解し、喜んでその流儀に従うことにすると、ふっと疲れが抜けたようで、思考が冴え、しかし心から寛ぐことができる。映画というよりも絵画を見る体験に近いように思う。


深酒は無用。最後にはよくB&Bをいただく。プースカフェではなくロックがよいとお願いすると、慈しむようにゆっくりとステアしてくれた。下から上に向かって開いた花のようなグラスの中央に氷の球が載せられ、琥珀色の液体が充たされるとそれが僅かに浮かび、縦横に不規則な回転を始める。ゆっくり、時々速く滑らかに、どこにも不動の支点はないはずなのに、球体は場所をぴたりと留めたまま、命を持ったように回る。なんだかはしゃいでいる風でもある。


夢の終わりとばかり、カラメルと薬草の香ばしさと濃厚な甘さを愉しんでいると、濃いめの紅色のお茶をそっとチェイサーに出してくれた。桃の香りが上品で爽やかな水出しのアイスティはブランデーとの対比と同調の両方を備えていて、美しいペアリングだった。


瞑想的な小一時間を過ごして、さぞ暗闇に目も慣れたろうとコートを取ろうとすると、カウンターにひっそりと置かれたランプのほうに瞳孔が慣れていたようで、意外にもこの夜一番の深い闇を見ることができ、最後の最後まで、静謐ながら密やかな驚きと喜びに満ちた時間を堪能することができた。


路地裏に戻ってきて、振り向いたらその場所はもうどこにも見つけることができなかった、そんなことが本当に起こりそうな夜だった。

bottom of page