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  • 執筆者の写真keiichiroyamazaki

憧憬

小学校に入学して最初に隣の席になった女の子とは6年生までずっと同じクラスで、とても生真面目で内気な子だったからそのわりに特に親しくはならなかったのだけど、合唱部に入っていて、日頃無口であまり声を聞くことのないほどだったのに、歌うときはまるで別人のように生き生きしていた。


修学旅行帰りのバスでカラオケマイクが回ってきて、そのとき彼女が歌っていた「針が下りる瞬間の胸の鼓動焼きつけろ」という、力強く明るいリリック。エクリチュールとパロールの対比のように、生きたものごとの体験が常に刹那的であること、それにまつわる記号の様々な形態が階層を成して、本質との隔たりもまたそれぞれ異なるということを伝えてくれる。


素直に読むのであれば針とはレコード針のことで、そこから音楽が発生する瞬間にこそその喜びが最も生々しく感じられる。当然にレコードは録音物であり、その元にはマイクの前で行われた音楽があるはずだが、一発録りでない限りそれは再生時に完成するよう手間暇をかけて作られたもので、その点にライブ演奏とは異なる妙がある。さらにこのリリックにおいては針が下りる瞬間なのだから、厳密にはまだ音楽が聴こえてすらいないというところも趣深い。


こうして書き留める文章も、書いた瞬間から死んだ言葉となる。思考し、それがまとまり形を成してくる、その瞬間の波動のようなものをわずかでもいいからまた再生できるよう留めておこうと試みるが、そう上手くはいかない。いちおう納得してはいるものの、やはりもどかしい気持ちもある。だめとわかっていても、それでも、結局は書くしかない。


学生のころはイメージがまとまらなかったが、20世紀、フランスを中心としたヨーロッパの思想家たちはよく「テクスト」や「エクリチュール」という言葉を用いた。これは人間である以上は固定化された、死んだ言葉の世界にしか生きることができないことを語っていると思われる。言語、ひいては文化という鎖に縛られ、それを通してしかものを見ることも考えることもできないから、自己とはさしずめひとつのテクストであり、生きることはエクリチュールであるということになるのだろう。


針が下りる瞬間の胸の鼓動は、決して焼きつけて残しておくことができない。しかし時間性を超えることができないからこそ、ひとはそれを忘れまいと願い、残り香をさえ拠り所として生きてゆく。死んだ言葉ではあるかもしれないが、それが積もり積もって己そのものとなる。分は弁えるつもりだが、「外側」に対する憧れは忘れてはならない。命題はそれらの境域に潜んでいるからだ。

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