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  • 執筆者の写真keiichiroyamazaki

冬月

私が使うのは日本語だから、その意味体系の枠組みは否応なく私の意識のありように影響を与える。それとは別にもっと小さな枠組みもあって、私は私の日本語の捉えかたというものを育みながら生きてきて、それもやはり、私の意識を形成している。


こうしてひとの意識には文化的に、そして個人的にと幾重にもそれを縛るしがらみがあって、それは不自由なことなのかもしれないが、それなしに自己が存在しないのも確かで、だから本来、誰しもが孤独であるのだ、という感覚を持っている。『ぼのぼの』でアナグマくんがしれっと言っていたように、誰だって独りだろう、と。


差異は誰との間にも確実に存在することを前提に考え、行動する。それが私の基本姿勢で、共有ということはたとえ数パーセントでも達成するなら御の字だ、くらいに思っている。差異がないものと見做すこと、共有は成された、と思い込むことはものごとを見る正しい姿勢ではないと断ずるところがあって、頑なだ。頑なである自覚はあるから、しなやかでいられるところはしなやかであるように、これでもいちおう努めてはいる。


そんなスタンスであることは、目的によっては私の強みでもあるが、もちろんその逆もあって、それがひとを傷つけたり、悲しませてしまうことも大いにありうる。だから、酒場にいてひとに深入りをしないでいるのが性に合っているのだろう。上手いやり方では全然ないが、他にやり方を知らないし、そこを曲げてしまうと不一致が生じて、見据えるべきものが見えなくなってしまう。


ぼうっとしながらコーヒーを飲んでいると、気の利いたもので私の一番好きなfly me to the moonが流れ始めた。Julie Londonの、ストリングス入りのやつだ。


ただ、痛ましい。

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