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  • 執筆者の写真keiichiroyamazaki

原体験

たしか中学の1年か2年のときだったと思うが、赤坂のサントリーホールにモーリス・アンドレを聴きに行った。街並みといい、ロビーの煌びやかさといい、子どもには何とも落ち着かない場所だったが、最前列に近い下手側の、音をよく聴くよりもよく見ることに適したいい席で、食い入るように見た。


もちろん演奏は素晴らしく、生で間近で聴く輝かしく甘美な音色はこの世のものと思えないほどだったが、音源と違うライブならではの不安定さはあり、彼自身も少々苛立っているような様子が見えて、つまり「調子の悪い日」であることはすぐわかった。こんな雲の上のひとでさえそういう日のある楽器なのだから、この不安定さを克服するのは事実上不可能で、上手に付き合っていくほかないのだと悟った。


パンフレットに、「トランペットだけを聴いて、トランペットのことばかり考えていてはだめだ、他の楽器をよく聴くことだ」と書いてあった。たぶん「トランペットを学ぶ日本の子どもたちにメッセージを」というようなインタビューに答えたものだったのだろうが、ヨーロッパのクラシック音楽家はよくこういうありがたいことを伝えてくれる。「たくさんのトレーニングを重ねることはもちろん大切だが、人生を知り、視野や感性を広げる時間を持たなければならない」と何人かのピアニストが言っているのを聞いたこともあって、それだけ手元の練習ばかりをやみくもにやってしまう楽器なのだろうと思ったりした。


こうした世界的な音楽家の言葉は、今でも私に影響を与え続けている。音楽そのものは好きだったが吹奏楽の世界には閉塞感を抱いて辟易していて、だからこうした言葉には胸のすく思いがしたし、実際にヴァイオリンやピアノ、クラリネットやオーボエの演奏をお手本にしたりして、楽器の違いは音楽の幹の部分を一にする、その最後の枝葉のちょっとした違いに過ぎないという感覚を持つことができ、それは大人になってからジャズを学ぶときほんとうに役に立った。


今、私は写真をやっているつもりがない。作品を作るのも、たまにジャズをやるのも、クラシックを聴くのも、ワインを飲むのも、本を読むのも、ただ自分が形にすべきもの、核になるものをいろいろな角度から眺めて、それをより強固にしたり、あるいは変化させたり、ひとことで言うなら育んでいる、という感じに近い。つくづく、認識の集合体が人間なのだと思う。


靴底に感じるふかふかした赤い絨毯の感触を思い出しながらテレマンを聴いている。美しい。

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