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  • 執筆者の写真keiichiroyamazaki

陰と陽

乱暴な言い方であまり好きではないが、東洋的と西洋的、ひとの理性や認識のあり方にもそうした違いがあるように思う。そして前者は観念が切り取られる前の全体、無や空と言ってもよいが、そうした言語以前のものを重んじるのに対し、後者はそれを切り取り明らかにする、いわゆる分節をこそ重視しているように見える。言語以前の「無名」を追い求め、深め、そこから己の内面に存在を再構築しようとする禅の姿勢や、ヨハネによる福音書の「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき」にそれは対照的に現れている。


私は現代の日本に生きて、世の中に大きな憂いと違和感を抱えながら、毎日をごまかしつつ生きている。その根を辿っていくと、言語の形とそれを扱う人々の認識のあり方に断絶を感じているということに行き着く。日本語の持つある種の曖昧さはまさに無名に根ざしたものと言えそうだが、現代日本人の感性はもう取り戻し得ないほどにそこから遠く離れてしまったように思えるし、かといって西洋的な、分節と言葉を重視、尊重するという文化背景もなく未成熟であるために、精神の背骨のようなものがどこにもないかのように見えてしまう。これは今に始まったことでなく、「陰翳礼讃」で述べられているのと同じことだ。


分節することを重視するのか、それ以前のものを重視するのかは、実は重大な差異ではない。そのプロセスに目が行き届いていることは変わらないのだし、布地を見るのか、それを縫う針を見るのかくらいの違いにすぎない。私は英語を訳したような日本語を昔から心がけているようなところがあるが、これは西洋的な理性のあり方を日本語で行おうとしているということで、しかしその関心は東洋的な、分節以前の虚無なるものに向けられている。どちらを見るのかという二元論でなく、その周辺に対する意識を持つということで十分で、そうした意味で両者の相互理解は可能だし、そこに無用な対立を設定する必要はない。


現代が抱える深刻な問題は、すでに分節された、言わば墓標にすぎぬようなものをそのままものごとの総体と疑うことなく見做して、観念が生命を得る瞬間の意識の煌めきや、あるいはその母なる混沌が忘れ去られ、人間理性がただ記号の奴隷と成り下がっており、経済がそれを強く推し進めて留まるところを知らないということだ。アートというものがあるとするならその使命はこうした構造からの解放なのであろうと私は信じ、だからそれは経済から独立している必要があって、卑しくもその目的が経済なのではない。

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