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  • 執筆者の写真keiichiroyamazaki

残渣

阿部公房氏が写真もやっていたことは有名で、あれは『死に急ぐ鯨たち』だったか、セクションごとに氏の撮ったであろう作品が挿入されているのを見たことがある。たしか、いずれも街に打ち捨てられたゴミの写真で、養老孟司氏との対談によれば「私はゴミが好きなんですよ」とのこと。文明とは機能であるが、その観点から人間を見た、機能として想定された部分で捉えきれない部分がゴミなのだ、だから都市化がどれだけ進んでもその外れ、狭間にはゴミが落ちているし、ホームレスだって寝ている、というようなことを言っておられた。(鉤括弧外は引用でなく私の要約)


氏はさらにその先、独裁や体制との関わりへと言及していき、ここからは自分とずいぶん違うと思っていたけれど、これは時代の違いと今は捉えている。私も、そしておそらくは氏も、人間がよりよくあるために「枠組み」を問い、その内と外との関係に思いを巡らせるべきだと考えていて、人間から理性あるいは感性の自由を奪い「枠組み」を押しつける力への反抗に生きている。それが氏の時代は政治体制であり、私にとっては金であるということだ。


私は、写真が好きではない。それはかつてジャーナリズムの手段として人間に考える材料を与えたかもしれないが、現在はただ商業の奴隷としてむやみに膨大な意味だけを垂れ流し、視覚による強力な記号機能をもって人間から思考を奪っているように見えるからだ。そう意図したわけではなく成り行きではあったけれど、今は、自分の採る手法が結果として写真であったことは、反抗する対象を決して見失わない意味でよかったと思っている。もちろん、写真は正しく作れば美しいものだし、何の罪もない。罪とは常に人間だけが抱くものだ。


こうした思考の先の、行き着くところがどんな場所かは想像がついている。それでもいいと思えるかどうかが、「資格」があるかどうかだ。

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