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  • 執筆者の写真keiichiroyamazaki

こころ

「こころ」という言葉を、ひとは簡単に使う。作品が「こころ」を表す。「こころ」を尊重する。こころこころと口にすればするほど麻薬めいたその柔らかな響きが感性を鈍らせ、言葉だけを残して実体は彼方に消え去っていく。こころと口にするとき、それがこころであるのか、「こころ」と書かれた下げ札なのか、よく考えてみる必要がある。


考えることを忘れたひとには、私の作品はこころを排しているように見えるだろう。それで構わないが、本意は違う。こころであれ、他の繊細なものごとであれ、安易に言語に置き換えられることでそれ自体が顧みられなくなる大切なものがこの世にはある。写真は伝えるという大義のためにその単純化を推し進める役割を担い、確かに人知に貢献しただろうが、貧しき現代社会においてそれは暴走し、ひとを飲み込み、際限なく愚かたらしめているように見えるのだ。


手がかりになるのは言葉だ。伝える道具などと安易に捉えずに、むしろ認識の礎、インプットであると捉えるところから始めれば、伝わる、伝える、共有するということの欺瞞や、意味とその認識というものがいかに頼りないものか容易に想像がつくはずだ。


誰もがものごとを早く楽に知りたがる。言葉を標に感性を働かせ、自分なりの意味を見つけてそれを他者と摺り合わせ、互いに理解を深めていくべきであるのに、言葉の形骸をただ振り回して、それで済ませてしまう。知ったつもりのことはただ下げ札を一瞥したにすぎない。多様性など見せかけの、死に至る画一化の時代だ。


私は未来に希望を抱いていない。ひとはこの罠から抜け出すことはできない。ものごとを単純化し、広く薄めて行き渡らせて金に換える仕組みが商業の中心にあって、誰しもそれに膝を折らねば食っていけないからだ。今、私たちは感受性や教養といったものを切り売りして生きていて、膨張し続ける商業主義によって食い尽くされた世の中に、一度失われた豊かさを再び育む力はない。「こころ」はもうないのだ。


だから、私は独りで生き、独りで作る。

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