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  • 執筆者の写真keiichiroyamazaki

抽象

言葉の意味が世間の認識とかけ離れていることは珍しくない。たとえば、抽象的であると言う。具体性を欠き捉えどころがない、はっきりせずよくわからないというような意味で用いられるが、注意を要する。抽象を辞書で引くと、対象からある側面を抜き出し、他を捨てる、といったような意味が書いてある。どういうことか。

物事があって、それを認識する。どんな物であれ事であれ、多様な側面を持つ。ポストは赤く角ばっていて、金属でできており、空洞だ。一時的に郵便物を溜めておくために設置され、定期的に係員が回収のために巡回し、そのために裏側には開閉できる扉があり、普段は施錠されている。こうした様々な側面すべてが「ポスト」を成しており、抽象はそこから任意の側面を抜き出し、他を捨てる。そこにはただ赤や、四角や、そういうものだけが残る。絵に描かれたポストを考えればいい。描かれなかった部分がたくさんあるはずだ。

つまり、この行為は解釈であるとも言える。ものを認識し、こういうものだと分析的に理解し、多様なその側面を整理し、重要なものを残して他を捨てる。ポストで言えば上述のような側面はおそらく、ある程度重要度が高いが、地面に近いところは苔が生している、塗装は浮き始めてでこぼこで、所々茶色い錆が覗いている、というようなことは、大抵の場合あまり気にしなくていい。

抽象が具象の対義語であるというのは、このような認識の過程でポストの個別性が失われ、代わりに一般化されたそのイメージが個を超えて他のポストと共有されるという意味においてである。だから抽象は小難しいアートやレトリックの中にあるのではなく、人間が毎日の生活で当たり前に行う理解そのもの。この花もあの花も種類は違えど同じ花であるとわかるのは抽象のおかげというわけだ。

では立ち帰って、抽象とは捉えどころがなくよくわからない、ということで本当にいいのだろうか。違和感がないだろうか。抽象はむしろ捉えた結果であり、たとえばポストの本質は赤であるという明快で勇気あるひとつの宣言ではないだろうか。あるいは、こうして言葉を発するということが、考えていることを形にするために行う抽象化であるとは思えないだろうか。


抽象化によって個別の物事は形を失うが、それによってはっきりと浮かびあがる別の形がある。何でもかんでも二言目にはわかりにくいと泣き言をこぼすひとは、こうしてものを見るだけで、ずいぶん違う。

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