• keiichiroyamazaki

みえざるもの

お盆休みに「もののけ姫」をやっていたから、久しぶりに観た。まともに観たジブリの映画はこれが最後で、以後のものはよく知らない。たしか宮崎駿氏が最初に「これで最後。やめる」と言った作品だったような気がしたがどうだったか。以後、ほとんど一つ作るごとに毎回「やめる」と聞いたように思う。天文学的な作業量だろうから、都度やめたくなって無理もない。


かつて観た記憶では、それまでの作品で扱ってきたテーマや要素を集約して焼き直したような、集大成のような印象だったが、年月を経て観直して、一番印象に残ったのは「こだま」の姿だ。たくさんのこだまが逆さに落ちていく映像がただ悲しく、しばらく頭から離れなかった。


考えてみたら、「もののけ姫」には子供が登場しない。アシタカの故郷にも数人の娘たちの他に見当たらなかったし、生活感のあるタタラ場も然り。夫婦らしい描写はあれど子供の姿はなく、戦場や森の中は言うまでもない。目を凝らせば市場あたりにはいたりするのだろうか。


作中にはたくさんのコミュニティが登場する。タタラ場、山犬、猪、武士、ジコ坊たち。アシタカはその間に身を置いて、「曇りのない眼で」その関わりを見極めようとする。それぞれにそれぞれの言い分があり、生存、生活に関わる切実な問題があり、時には誇りがある。そこに生きる存在は等しく利害者であり、自分の場所で日々をただ懸命に生き、間には軋轢がある。


こだまは、その枠組みの外にいる。どんな利害もなく、ただ目に映るものを楽しんでいる。振る舞いは幼児そのもので、他のどこにも子供が登場しないだけに、作中の「無垢」を一手に引き受けている。森は彼らで溢れていて、それが生の無垢な喜びに満ちた場所であると感じさせる。


それが、そのこだまたちが、何の感慨もなく、逆さに真っ直ぐ落ちていく。あっけなくそっけないその姿はコミカルでさえあって、一度あの数、量を見せられてしまっているから、画面に現れなくとも、雨のように夥しいこだまたちが墜落していく様が嫌でも補完される。利害による軋轢が、その外にある無垢を滅ぼす。滅ぼされる者は為すがままものも言わず、ただ上から下に消えていく。業というものを思わずにはいられない。


原罪、そういうものはあると思うが、誰に対しての罪であるのか。それは実存せず、自己と世界の境目に想定される、裡とも外ともつかぬところにある何か。幻想と呼ぶにはあまりに確かで揺るぎなく、神と呼ぶにはあまりに儚く頼りない、そんな何かだ。

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