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  • 執筆者の写真keiichiroyamazaki

雲の輪を見上げて

先日、いつもの通り屋上でお昼を過ごしていたら、戦闘機の編隊が雲の筋を引きながら真上を飛んでゆき、遠くで五つの輪を描くのが見えた。


開催できるのか、してよいのか、するならどのようにして、一般人にとってはどうにも中途半端な気持ちのままなし崩しに始まるオリンピック。参加しない、できないという選手も少なくない中、たとえ勝ってもケチがつくであろうし、かといってそれが夢の舞台であるというひともいて当然で、学校の運動会は中止でオリンピックは行う道理も乏しく、釈然としない。


私はアトランタでオリンピックは死んだと思っていて、利権と金以外に目的はないと知っているから、開催をめぐる今回の経緯を異常とは思わない。むしろ商業至上主義がどれだけ世界を見苦しくするものか、今更ながらそれを人々が少しでも省みてくれるなら、と思う。


それでも、人間は変わらないだろう。商業主義はどこかの会長みたいな絵に描いたような悪者が厚顔無恥に権力を振り回す漫画のように単純な構図でなく、富める者も貧しい者も、老いも若きも男も女もなく、それぞれが日々の糧を得るため、家族のため懸命に営む日常のあらゆるところまで広く深く根を巡らせているからだ。そこから自由になれるはずのアーティストと呼ばれる者でさえ、今や経済の奴隷なのだから救いようがない。


人類と経済の振る舞いは壊れた原子炉のように制御不能で、膨張するしかないし、膨張の先は風船のように割れるしかない。そうでなくても、いつか太陽が大きくなれば私たちに適した環境は完全に失われるのだから、それまでの間のどこかでは乏しい資源をめぐる奪い合い、殺し合いが始まるのは火を見るよりも明らかだ。


いま社会の様々なところで顕在化しているある種の不気味さは、いつか決定的になるであろう破滅の未来のほんのりとした予兆であるように思う。解決すべき問題はより切実に、より複雑になっていくのに、人間はますます短絡的になって歯止めが利いていないし、この先もそれは変わりそうにない。


選手たちには申し訳ないけれど、私は東京五輪からそんなことを思う。それでも、どこのお国であれ個々の選手の健闘は祈ってやまないし、その技と力を讃えたい。そして望みは薄くとも、その姿が人々に富よりも大切な何かをひとかけらでも残していってくれたらと願う。

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